高校に入学したとき、僕は意気揚々としていました。「ここから新しい人生が始まるんだ」と。でも現実は残酷で、いじめに遭い、心も体もすり減って、結局は中退。1年間、ほとんど家から出られなくなりました。 「中卒」というレッテルを背負ったまま、僕の青春は止まっていた んです。
母子家庭でした。朝から晩まで働く母は、「働かなくていい、大丈夫」と言ってくれる。その優しさに、同時に胸が痛みました。ある日、帰宅した母のコンビニ袋の中身を見て、僕は愕然とします。病院で処方された、大量の薬。「ただの風邪らしいけど、念のため」——母はそう言いました。
でも後に、それが“嘘”だったと知ります。本当は、 白血病の疑い があったのです。一人で恐怖と戦いながら、僕に心配をかけまいと、母は「ただの風邪」と言い続けていた。
「医療の道に進みたい」
母を守れる存在になりたい。
とはいえ、医者になるなんて到底無理。それでも何か健康に関わる仕事を、と探すなかで出会ったのが「トレーナー」でした。専門学校に進み、夢を膨らませていた矢先、ある先生の一言が刺さります。「お前ら、トレーナーは稼げねぇぞ」。けれど学校には、年収1億円を稼ぐトレーナーもいた。 稼げる人と、稼げない人。その差は、いったい何なのか。 この問いが、僕の人生を動かし始めました。
卒業後、芸能人も通う有名ジムに内定。ところが研修で、僕は何ひとつ覚えられなかった。電話を受けながら予約を捌く——典型的なADHDの僕には、それができなかったんです。そのうえ、「オーダーメイド」と謳いながら実態はマニュアル指導。効果が疑わしいサプリの販売も求められる。違和感を口にした数日後、社長面談、そして退職。 社会人歴、わずか3日 。今では鉄板ネタですが、当時は笑えませんでした。
そこから個人事業主として独立。といっても実態は、週2日の指導と週5日のバイト。見た目は事業主、中身はフリーター。ジムに行くだけで経費がかかり、気づけば赤字。このままでは本当にまずい——。
iPhone 4sを片手に、毎日「トレーナー 稼げない」と検索する日々。絶望的なキーワードばかり並ぶなかで、ある強烈な言葉に出会います。怪しい。いや、怪しすぎる。でも、惹かれてしまった。それが、後に師となる方のメルマガでした。生まれて初めて登録したメルマガです。
やがて届いた高額講座の案内。値段を見て「無理だ」とページを閉じました。でも、ある日の一通の件名が、僕の手を止めます。 「値上げします」 。ずっと読んでいたということは、参加したいという気持ちの裏返し。 欲しい理由がお金ならやめておけ。買わない理由がお金なら、買え。 数分後には、申込みボタンを押していました。手が震えたのを、今でも覚えています。
人生初の合宿セミナーは、昼から夜中の4時まで。マーケティング、コピーライティング、ブランディング、値決め……正直、ほとんど理解できませんでした。まるごとのリンゴを口に入れて、噛めないような感覚。それでも、心は震えていた。
「これだ。
ここに、自分の未来がある」
夢中で実践を始めました。けれど生活は、どんどん苦しくなっていく。ガス代が払えず止められる。ストレッチマットを布団代わりに寝る。3パック63円の納豆を、1日1パック。チョコチップパン10本入りを、1日1本で凌ぐ。 そんな極貧生活が、5年も続きました。
普通なら、諦めていたと思います。でも僕は学び続けた。参加費100万円を超えるセミナーにも、借金してでも足を運んだ。「学びをやめたら終わる」——そう思っていたからです。なぜ自分は結果が出ないのか。その問いを抱えて、ファミレスで深夜2時までパソコンを叩く日々が続きました。
どんなに真似ても、結果が安定しない。そこで僕が取った戦略は、 場所を変えること でした。選んだのは、下町・綾瀬。これまでの高級エリアとはまるで違う空気の町で、「女性を健康にし、薬を飲む人を減らしたい」という理念を掲げ、地域に密着しました。
やったことはシンプルです。掲示板にチラシを貼り、ホームページをセールスレター型に変え、30万円のパッケージを設計し、メルマガを始めた。たったこれだけ。すると開始直後から、月に5件の問い合わせ。高額にもかかわらず、次々と成約が決まっていったのです。
「コピーって、すごい」
学んだ知識を、初めて“言葉”に落とし込み、見込み客の心に届ける。心の底からそう思えたのは、この綾瀬での成功体験があったから。僕にとって、最初の突破口でした。
順調に思えた矢先、コロナがやってきます。ジムは営業停止、対面指導は一切できなくなった。けれどこの強制的なストップは、僕にとって「立ち止まる時間」でもありました。問いを重ねるうちに、ひとつだけ明確になったことがある。 「僕には、オンラインでトレーニングを届ける熱量がない」 。認めるのは怖かった。でも、勇気を出して受け入れました。
迷う僕に、編集者・長倉顕太さんはこう言いました。「理想の生活をしている人に、会いにいけ」。嵐のような思考が、一瞬で凪になった。次に出会ったのが、12時間で5億円を売った伝説のマーケター・伊勢隆一郎さん。人生に迷っていると吐露した僕に、返ってきた言葉は意外なものでした。「土をいじったほうがいい」。
素直なのかバカなのかはさておき、翌朝から山を開拓しました。汗だくで草を刈り、土を掘り起こす。すると不思議と、視野が広がっていく。「優れた商品を、もっと多くの人に届けたい」。そう思い始めたとき、頭に浮かんだ答えが—— 「コピーライターになろう」 でした。そしてもう一人、後に“ボス”と呼ぶことになる、起業家の原田翔太さん。この3名との出会いが、僕の人生の軸を定めてくれました。
コピーライターとしての最初の一歩は、平坦ではありませんでした。とりあえず作った商品は、惨敗。読者100名では売れないのも当然ですが、当時は本気で落ち込みました。そんな僕に、神崎崇さんが教えてくれたのは、小手先のテクニックではなく“姿勢”。毎朝のタイピング練習は、今でも続けています。 地味な努力の積み重ねが、力になる と。
とにかく毎日メールを書こう。読まれるかは分からない。でも、積み上げた言葉の先にしか道はない。深夜まで書き続けたある日、初めてオンラインで売上が立ちます。商品は1万円、購入は2名、合計2万円。 でもその喜びは、何千万円にも勝るものでした。
そして2020年、再び訪れた沖縄で、運命を変える言葉を聞きます。伊勢さんが、僕にこう声をかけてくれたのです。「一緒に働こうよ」。人生で最初に読んだビジネス書の著者から、直々のオファー。それでも僕は、長年支えてくれたお客様を思い、一度は「保留」を選びました。数ヶ月後、再びメッセージが届きます。「オンラインで良ければ、一緒にやりましょう」。今度は、迷いませんでした。
初めての大規模プロモーション。オプト、CVR、広告数値——右も左も、なんなら上も下も分からない。人生で初めて「お金はいりません」と伝えたのも、この頃でした。相手が望む以上の成果を出すからこそ、報酬は生まれる。僕の仕事への向き合い方は、ここでつくられました。
現実はそう甘くなく、生活は極貧のまま。築60年、家賃5万6,000円の4畳一間。インスタントラーメンを半分に分けて朝晩に食べる日も。それでも諦めず、深夜のマクドナルドでコーヒー一杯、朝まで作業を続けました。やがて、オンライン英会話で500万、占いスクールで2,600万、健康スクールで3億—— 関わるプロモーションは、累計10億円を超えていきました。
けれど数字を追ううちに、お客様が「数字」に見えてしまった時期があった。そんな自分に違和感を覚え、僕は原点に立ち返ります。誰のために、なんのために、コピーを書くのか。その問いに戻るたび、数字も、心も、不思議と整っていきました。
これまで数多くの現場を見てきました。お客様の声を捏造し、誇大広告で売上をつくる人。受講生を追い込む人。数字としては正しいのかもしれない。でも、僕は心から「それが正しい」とは思えなかった。その裏側には、 想いを込めて作ったのに売れない人 が、数えきれないほどいたからです。かつての僕自身も、その一人でした。
誰かのために頑張る人が、
報われる社会をつくりたい。
コピーライターは、光の当たらない裏方です。でも本来、光が当たるべき人・商品・サービスを、より多くの人に届けるのが役割だと思っています。コピーは消耗品のように扱われがちだけれど、言葉には、人の人生を変える力がある。だから僕は、後世に残る仕事をしていきたい。
この10年で学んだことは、とてもシンプルです。
「成長を感じたとき、
人は幸せになれる」
大きな成果でなくていい。昨日より今日、今日より明日。少しでも成長したと感じられること。その積み重ねが、人を幸せにしてくれる。だから、誰でも結果は出せます。特別な才能がなくても——それは、僕が証明しました。
ここに書ききれなかった話や、この続きは、メルマガで少しずつ。よかったら、これからの及川を追いかけてもらえたら嬉しいです。